2020年3月23日月曜日

ヒンドゥーの葬儀

滞在中にBBの村の学校の先生のお父様が亡くなられました。BBとドクターシュザムがお産施設の引き渡し式に出かける途中で弔問に行くと言うので同行しました。

親が亡くなると息子達は13日間喪に服し、つむじ辺りにトゥピと言うほんの少しの髪を残して髪を剃り、白い布を着て、ワラの靴を履いて過ごすそうです。
寝泊りも息子達だけで行い、食事も家族とは違ったものを自分達で料理して食べるのだそうです。


簡易祭壇でティカという赤い粉をお父様の写真にかけて弔意を表しました。

棒にお香がついたこちら流の線香が煙が絶えないように焚かれていました。お香以外にも花も果物や甘い物も、そして米も捧げられていて、これは日本の仏教の死者の癒し方とほぼ同じでした。

先生もその奥さんも娘さんも、人を惹きつける魅力のある、笑顔のとても素敵な方達でした。
娘さんは現在カナダのカルガリーに住んでいて、お爺さまが亡くなったことで小さな娘さんと一緒に一時帰国したのだそうです。私の娘がビクトリア大学に留学していたこともあり娘さんとしばらく話が盛り上がってみんなで笑いました。おちびちゃんも英語は分かるので。

ちょっとだけ皆さんの気持ちがほぐれた時間になってくれていたらと思います。

人々

BBの奥さんのお父さんとの再会です。
去年も二人で一杯やりました。昼間っから。
今年も一杯やりました。昼間っから。ロキシー友達ですからね。(⌒▽⌒)










お父さん、良い気持ちになってちょっと居眠り。
昼下がり、ロキシー飲んでの昼寝は最高ですね。



お父さん、こんなに明るいんだけど地震以来二階建ての立派な家で寝るのが恐くなってしまったみたい。今では奥さんと二人で納屋だった平屋の建物に寝泊まりしています。
震源地に近かったからね。恐い思いしたんでしょうね。



友達のトプさんの家での宴会風景。私と乾杯しているのがトプさん。
昔はカトマンズの一流企業で働いていたみたいでちょっとだけお金持ち。自分のプロモーションビデオを取って貰ったり、ちょっと受けるお金の使い方する人で面白い。
奥さんがナースでトプさんはお店の建物を人に貸したり自分のお店をやったりして生活しているみたい。友達からはお金は取らないって言って私が何を頼んでもただです。
BBの村では私にたかろうとする人はいないけど、トプさんといると本当に安心できる。人柄が好きだなあ。



ビビのお父さん。

今年初めて笑顔で迎えてくれました。
今までは、私は空気みたいな物だったらしいけど、今年は笑顔で迎えてくれたので嬉しかったですね。

この外人がうちにたかって何してるんだって思ってたのかも。お産施設が本当に建って、やっと信用して貰えたのかもしれない。







次はパルパで出会った人々です。

お母さんが子供を抱いていますが、子供の頭にはフードが被せられています。じつはこれ、風邪予防なんです。ドクター達に言わせると根拠はないというのですが、ネパールの人達は頭を温めれば風邪予防になると信じているようです。風邪から始まっていろいろな感染症にかかってしまうことがあるから、風邪を心配するのだそうです。




水場です。この村ではここで食器を洗っていました。残飯は取っておきません。感染症が恐いですから、人が食べ残した物は基本的には食べません。ブタや山羊や鶏の餌になります。器に食べ物をなくしてからここで洗っています。
日本人はここの水を飲んだら、一発で下痢になります。ネパールの人達は大丈夫ですが、日本人は必ずタトパニ=お湯、湯冷ましを飲みます。



掃除の様子です。箒代わりの草を使いますが、最後は手で集めています。水牛の糞などの始末も普通に手で行います。水が乏しいですから、こういった作業をした後に必ず手を洗うかと言えば、そうでもなかったりします。
子供達の衣服も汚れていたりする場合がありますが、子供達の汚し方にいちいち服を洗っていては水が持たない場合もあります。古い物でも身ぎれいにしてあげるってことができなかったりするんです。水って大事なんですよね。





最後は我らがOKバジ。
ちょっとお年を取られた感じでしょうかね。御年80歳となられました。
でも、山を歩かせたら私なんかは到底追いつけないくらいのスピードでお歩きになりますよ。いつまでもお元気でいらしてください。















山の中のお産施設

最初の視察から4年目。
とうとうネパール地震の震源地に近いところにあったお産施設が再建されました。

下の写真は昨年のお産施設の様子です。地震の後、ひび割れができて危険になってしまったお産施設を取り壊し、インドからテントを貰うことでドクター・シュザムとナースはお産施設の活動を続けていました。









このテントで4年ほどやってきたのですが、いつしかテントは右の写真のように苔とカビだらけでほころびの目立つものになってしまいました。

なにせラプマタは左の写真のように霧の濃いところ。乾季であってもこの霧に悩まされ、雨期ともなればバケツをこぼしたような雨が降るわけですから、コケとカビだらけになっても仕方ありません。

施設がこんな状態になると、ここをお産に使う人はどんどん少なくなりました。それは分かりますよね、この状態では.....

それでも施設を預かるナースはこの施設を守りました。彼女のお給料はこの施設を使ってくれる人たちが支払うお金の中から出ていたため、無給の期間がずいぶん長くあったのにもかかわらずです。


そして、とうとうできあがったのが上の写真の施設です。
屋根のトタンも質の良い物ですし、仕上げも丁寧にできています。ドクターと村人達の精一杯の心が入っている感じがして嬉しい限りでした。

この施設を守り抜いたナースが左の写真に写っている方です。二児の母です。

この施設は皆さんから頂いたご寄付ではなくて私個人のお金で建てました。この地域でのドクター達との初めての共同活動でしたから、失敗してお金が無駄になってしまいましたとご寄付を頂いた方達にお話しするわけにはいかなかったからです。


この施設は山間部の約2000人(山間部で考えるとかなりの広域)のバーシング・センターとしてだけでなく、無料で薬を処方するヘルスポストとしても機能することになりました。右の写真のロッカーと左下の写真の棚に入っているのがその薬です。
右下の写真に写っているのが、どんな症状にどんな薬が効くのかが一覧になった表だそうです。



新たなシステムを模索する試験的な試みとして、お産に関してはナースの往診を行う事を予定しており、これからは2人体制で行うことにもなりました。

この施設が出来てから8年間施設を守り続けたナースにはチーフとして活躍してもらうことになりました。右の写真が彼女のデスクです。この施設が大きな建物として再建された事でドクターシュザムも施設も郡の医療から認められて、ナースの給料が郡から毎月定額できちんと出ることになったそうです。

更に2000ドルもする左の写真の消毒機械もこの施設に贈られたと言います。

私は知らなかったのですが、山間部の(医療施設との併設ではない)独立したお産施設としては、ネパールで初めての施設だったのだそうです。地震で建物が壊れて、その試みが崩れようとしていた時に再建の話が私に持ちかけられたのです。



ですから、この施設はドクターとナースのそしてこの村の人達の夢であり誇りであったのです。

今回は機器も揃い、妊婦の状態に対応できる範囲が今まで以上に広がったようです。


妊婦の呼吸に問題が出たら対応するための機器が手に入ったとチーフナースになった彼女が嬉しそうに機械を見せてくれました。
そして、これからは右の写真の赤いお産セットがお産をした人全員に配られるそうです。ネパールではお母さん達の衛生面での知識が不足しているため、産着から15のアイテムを揃えたセットを渡すことで新生児の命を守るのだそうです。


ネパール語は全く読めませんが、私の名前だけは読めます
セレモニーで私がなぜこの施設を再建しようとしたのかを話した時と自分のお金を出した事を話した時、あまり表情を表さないマーガルの人達から割れるような拍手をもらいました。

最後に「子供達は地域の未来なのだから、大事に育てて、このドクターやナースの様にこの地域の発展に尽くせる人物に育ててくれたら嬉しい。」と言った時にも。




延々と長く続く地域の偉い人の挨拶の中でZenpo Hiraoがあまりにも何度も使われたため、若者達でさえ私の名前を覚えてしまったようでした。


若者の1人が私にネパール語は話せるかとききました。I know ロキシー(ヒエの酒) and ミートチャ(美味しい) and デリー・ミートチャ(とっても美味しい).と言うと、みんな爆笑。
若者から話しかけられたのは、多分初めてです。
セレモニーの後のパーティーではみんなメッチャクチャ笑顔で私にロキシーを注いでくれました。

幸せな1日でした。

左からドクター・シュザム チーフ・ナース 私 BB













ラプマタはこんな所です。乾期の2月でさえ霧にかすんでいます。まあ、春霞もあるんですけどね。遠くに見えるのが学校です。地震で壊れてしまった校舎の再建が進んでいました。

なぜか分かりませんが、右の写真では子供達が集まっている樹の周りが白く写っています。不思議な感じですね。






2020年3月22日日曜日

マナカマナ

マナカマナでは、今までにない贅沢をしてみました。

D.ZEN JAPANは私の出張費を一切出してくれませんので私はいつも十数ドルの部屋を探して泊まるのです。が、今回は池田先生とご一緒と言うことで、先生にご不便がないよう奮発しました。朝食付で6,500円もするホテルです!って威張ってみたところで、日本でなら民宿よりも安いってことになりますが....


            
 でも立派なウェスタンスタイルでしょ?
プールサイドバーを備えたプールまであるんだから。

実はこの前日に泊まったホテルでは笑えるハプニングだらけでしたので、なおさらこのホテルの印象が良いわけです。

昨年泊まったときには15ドルほどだった前日のホテルが11ドルと随分安くなったと思ったら、お湯が出なくなっていたんです。
厨房でお湯を沸かして部屋までお湯のバケツを運んでくれるのですが、藤岡君と二人部屋の私は待ちきれずに水でシャワー。

現地の人は沐浴しかしないですから、蛇口をひねっただけで水が出て来たら、それは立派なものなのですが。でもまあ、滝行みたいなものですから、上がった後、心地良くはありましたけどね.....(笑)










部屋の鍵を閉めたら開けられなくなったのでフロントを呼んだら、あけてくれました。それは良いんだけどその後、鍵をそのまんま持って行かれてしまったんですよね。「えっ.....?え? まあ、いいっか。」
藤岡君も私も荷物に鍵をかけられるようにしてありましたからね。開けられなくなるよりずっと良いわけで、順当なご判断かと....(笑)

それとエアコン。温度設定を30°にしないと動く気にならないみたいだったんですよね~。
暑い寒いの繰り返しというめったにない貴重な経験をさせて頂き、最後は布団の中に寝袋を入れてエアコンを消して寝るという技を身につけることもできました。いつかどこかでこの技が役に立つかもしれません.....(笑)
この話は写真のホテルのことではないですよ。前日のホテルの名誉の為にも写真は出しません。

こちらの随分立派なホテルのコテージでは、私と藤岡君は7番、池田先生はお隣の8番でした。快適~! なかなか立派なコテージでしょ?
池田先生なんか、私達がマナカマナの女神様にご挨拶して帰ってきたら、読書なんか(ちなみに平家物語を)されてましたよ。ランチにコーヒーとサンドイッチを頂いてのんびりさせてもらったと、ご機嫌でした。

そうそう、藤岡君てどんな人?と思われた方もいたかもしれませんね。左のカトマンズの日本食レストランでの写真でも、タンセンのネパール料理店での写真でも右手前に写っているのが藤岡君です。前にも書きましたが、愛媛大学の学生さんで交換留学生としてニューデーリーの大学で勉強していました。
右の小さな写真(クリックすれば大きくなりますが)で校長先生の奥さんに頂いたショールをまとっているのが池田先生。

そして、タンセンのレストランでの写真では左手前、左のマナカマナのホテルでの写真では左から二番目に写っているのがウッタムさんです。以前私が里子を養っていた(学資を出してあげて学校に通わせるシステム)ときにお世話になったカトマンズのボランティア団体の方です。池田先生は最近までウッタムさんの所で里子を続けられていたようで、そんなご縁もあって池田先生とは親しくさせて頂いていました。


そして、上の写真で左手前にいるのがBB=ビビ(BalBahadurバルバドゥール)です。日本語通訳兼ガイドとして一度バジさんとの旅に連れて行きました。ネパール地震の震源地に近いところが実家で、地震の後は彼の実家に泊まって現地の様子を見させて貰いました。
現状を見た中で最も必要だと思われ、また村人やナースやドクターが本当に支援を望んでいると感じられたところがラプマタという村のお産施設でした。という訳で今回そのお産施設がやっとできあがって、この後引き渡し式に出かけるのです。


マナカマナに到着したのが午前中でしたので、荷物を置いて女神様の所へご挨拶に伺いました。










この女神様は、人々の願いを聞くことだけはきちんと聞いて上げる方のようでした。

 えっと、なんだっけ?

右の料理は名前は忘れましたが、ネパールの伝統料理です。
真ん中のひえだかあわだかの柔らかいお餅みたいなのが珍しいみたいです。


帰りのロープウェイからの景色です。やっぱりこの川は清めの川なんですね。オーブが一杯写りました。