2014年3月20日木曜日

OKバジ20周年の旅 ホーリー祭



ホーリー祭-塗料と水をかけ合うお祭りです。
この欧米人達のようにどっぷり浸かっちゃうのも一案です。
その代わり、この塗料がなかなか取れないのは覚悟しなきゃあなりません。結構飛んでくるのが泥水だったりする場合もあるから、病気もね。

チョー楽しそうに塗料を蒔こうとしてしてますね。こんな小さな子達に楽しそうに追いかけられると、怒るわけにもいかず、結局被害にあうことも多々あります。お年を召した方なんかは割と平気かもしれませんが、若い女性は街を歩いたら覚悟して下さい。私らおじさんでさえ、小さな女の子に追いかけられて、塗料ちょびっとかかりましたしね。通りを歩いてて、真上から水がバシャーってなことも。この日は、水をかけられて怒っちゃいけないことになってるんです。上から声かけられて、「かけても良い?」って小さな女の子に聞かれたりもしましたよ。「No! No! No! No!」って言って私達が逃げるのをお母さん達もほほえんで見ている感じだから、濡れたり塗料のつ
いたら困る服を着ては歩けません。
上の男の子達はペインティングを楽しんでます。




ご一緒した三重OKSSの小山さんが取ってくれた1枚です。チョー楽しんでますよね。




チベット仏教のお寺で見たかわいいお坊さんです    ゴールデン・テンプルにて


最後にヒマラヤの山々をどうぞ。
ポカラからカトマンズへ飛んだときのものです。ヒマラヤ遊覧飛行ってやつは行ったことがないのでこれで勘弁してください。






2014年3月19日水曜日

横井久美子さんとサチコールの子ら

「戦車は動けない」のシンガー・ソングライター 横井久美子さんが、マーガル族の村サチコールで音楽教育をされています。横井さんはサチコール村に、マーガル族の伝統建築様式で音楽堂も建てられました。今回は、その落慶式典もかねてのご訪問だったようです。

サチコールの子らは、OKバジさんの20周年記念での舞台に向けて練習してきました。
決して高くないカーストの彼らの晴れの舞台は、感動的でした。


大きな木の下でリハーサルです。
横井さんから決して目を離さない少女。
笛の音を真剣に聞いて演奏している少年達。
彼らのあまりにひたむきな姿勢に感動を覚えます。



笛を吹く少年達。なんて素敵な表情なんでしょう。

三重OKSSが購入してくれたギターを横井さんが彼らの元に届けてから、ギターに魅せられる子らがサチコールに生まれました。

今までにない音。届けられたのは文化でしょうか。


練習の演奏が終わったとたんに少女が始めたこと。
彼女が横井さんの持ってきた音楽と横井さんご自身を心から好きでなければ、こんな場面は見られなかったんじゃないでしょうか。



横井さん、メチャかっこいいです。
ギターの女の子は、明らかに横井さんにあこがれていますね。

今まで、お金が沢山儲かる仕事に就きたいと言っていた優秀な男の子まで、歌手になりたいって言いはじめているそうです。

サチコール村では、何かすごいことが起きています。


動画を載せておきますね。
レッサンフィリリという歌です。2番は日本語で歌っています。




OKバジ20周年の旅  記念行事当日

前日の夜、タンセンの外国人向けのレストランでバジさんと会う手配をロスさんにして貰い、式典の始まりよりも早く着くように出かけることにします。
式典の開始は12:10だと聞いていましたが、タンセンを7:00に出て、会場のランプールに向かいます。タンセンからはタクシーでは走れない道なので、4輪駆動のジープです。

開始時間が半端なのはネパールの人達がきっちりした数を嫌うからなのだそうです。ウ~ン、まあアバウトな方が好きなんでしょうね。日本人には好まれない区切りですね。(笑)

 

4時間かかると言われていた到着も、運転手の青年の運転が良かったのか10:00前に到着できました。彼は途中で私達に風船ガムを買ってくれたり、自分たちの車の後部座席(私達お客が乗る場所でない部分)に歩いて会場に向かおうとしていた人達を乗せてあげたり、なかなかの好青年でした。めったにあげないチップを彼にはあげました。.

早めに着いた私達は、バジさんとお話を。ここはロスさんがきちんとやってくれました。


お店でお茶を飲みながら話していましたが、いろんな人が挨拶に来るので落ち着きません。バジさんがもっと人の来ないお店に移動しましょうと私達を外に連れ出したら、大会委員のシャルマさん達とバッタリです。



私の左横にタオルを首に掛けているのがOKバジこと垣見一雅さん、垣見さんの後ろに隠れているのが三重OKSSの前島御上人、私の右がシャルマさんです。シャルマさんの横のピンクの上着を着ておられるのが、神戸三宮でネパール料理のお店を経営されている、これまたシャルマさんです。



私の横のシャルマさんは、新聞社の編集長で、去年の6月に日本に講演をしに来てくれた方です。
左の写真では、バジさんに記念出版物の説明をしています。

右の写真では、「こいつが ZENPO だ。」って、村の方に私を説明しています。

シャルマさんには、私の寺、普濟寺でもバジさんとご一緒に講演をおねがいしたのですが、講演の日朝食の後に持病の薬をなくされたことに気づかれました。
日本で病院にかかるのは大変なことだし、次の講演日程にも間に合わなくなります。お金も払えないだろうしと困惑していたところ、講演を聴きに来て下さっていたA先生がお力を貸して下さいました。

ほんの数十分の間に、普濟寺からご自分の病院までお薬を取りに行き、駅までお薬を届けて下さったのです。私がお支払いをしようとしたら、「支援です。」とだけ言われて、一銭もお取りにならずにさっとお帰りになりました。私自身もその決断と行動の速さに驚き、感動すら覚えた出来事でした。

シャルマさんも、決してこのことを忘れていませんでした。
バジさんに聞いたところ、A先生と私のことは何度も話に出して、ありがたかったとおっしゃってくれていたようです。この方は、最後から2番目の人気のあった国王に、「パルパの鷹」と呼ばれた大変な実力を備えたジャーナリストだそうです。




バジさんに会いたい人は、限りがありません。この日は2万人以上の人が来ると言われていて、会えると思っていなかった左上の女性は、偶然会えたことに喜びと驚きの声を上げています。ネパールの女性がこんな風に振る舞うことは滅多にないかもしれません。でも、それほど驚いたし嬉しかったのでしょう。

落ち着いて話せるはずの店に到着しましたが、人はひっきりなしです。「OK Baji!」「OK Baji!」といろんな所から声が聞こえてきます。

大事な用件の話が終わる頃には、バジさんの着替えの時間になりました。10周年記念の時に大会委員会が作ってくれたネパール人の正装に着替えるのだそうです。
「それに合わせる靴はないよ。スニーカーしか持ってないもの。」のバジさんの言葉に、大会委員の一人が「バジ、私の靴を履きなさい。スニーカーはダメです。」と自分の靴を差し出しました。

なんて素敵な場面なんでしょう。やっぱり、ネパールでこんなに愛されている外国人はOKバジさんしかいないと思えた場面でした。




パルパの鷹-シャルマさんと一緒に写真を撮りました。




式典が始まりました。バジさんへの感謝状から始まりましたが、何せネパール語。何を言っているかは正確には分かりません。

 

しばらくすると壇上に呼ばれて、日本の支援団体から各代表一人だけが壇上に登りました。
バイオガストイレを私に教えてくれた、愛媛の支援団体CCWAの代表-池田さんにお久しぶりに会わせて頂きました。
私のことを覚えていて下さって、お声をかけて下さり、その後の報告などをさせて頂きました。支援活動がうまく運ばなくて落ち込んでいたときに、池田さんのメールに励まされた覚えがあり、お会いできて本当に嬉しくなりました。
おばあちゃまと言うには、あまりにお若く、颯爽とした話し方の裏にある暖かな、そして包み込むような人間尊重の精神に敬意を感じざるを得ません。



そうこうするうちに、サチコールの子らの初舞台が始まりました。
青いワンピースに白いスカーフを巻いているのは、『花のおかあさん』の著者、桜井ひろ子さんです。サチコール村に1年の内5ヶ月間暮らしていらっしゃいます。

右横はこの子達の演奏と歌を指導した横井久美子さんです。『戦車は動けない』のシンガーソングライターで、先日サチコール村にマーガル族の伝統的な建築様式で音楽堂を建てられたばかりです。芯の通った素敵な方です。




国士舘大学の学生さん達も、ちょっとだけネパール語の勧善懲悪チャンバラ劇を披露してくれ、会場を沸かせました。若いっていいなあと思える、清々しい若者達でした。みんなお腹を壊してしまっていたのに、精一杯やってくれました。
この学生さん達、実はバイオガストイレの穴掘りの支援活動に来てくれていたんです。ありがたいことです。

地元の若い娘達も踊りを披露してくれました。




私達が会場を去る頃までには、まだ到着しない人達が多かったようです。
日が暮れて、涼しくなった頃に出かけてくる人達も多かったようで、私は自分たちが支援して校舎を建てた村の人達に会うことはできませんでした。



OKバジさんにお礼を伝えに来た人達の行列です。今回はお土産は持ってこないように連絡したらしいのですが、感謝状だけでなく、カバンやシャツやいろんなお土産を持ってくる人達は後を絶ちません。この行列は延々と8:30頃まで続いたそうです。




下の写真、何を売っているんだと思います?
吹くと音が出て伸びる紙風船の笛みたいなやつです。
日本でも屋台で売っていたりしますよね。




左の写真は日陰で一休みの一コマ
写真は滅多に見られないので、子ども達はみんな後ろから見学です。

右は「ナマステ~」の挨拶でやってきたサチコールの子ども達です。




下の写真は、OKバジさんのために建てられた記念碑です。
でも、バジさん苦笑い。

格好がどうも日本のお墓に似ていますよね。
それに Memorial Pillar の、Memorial って言うのは亡くなった人を偲ぶ場合に使う単語なんだそうです。
「まだ生きてるんだけどねえ....」とおっしゃっていました。(笑)




このページから三重OKSSの小山さんに頂いた写真データも使わせて頂いております。

小山さん、ありがとうございます。




OKバジ20周年の旅  ポカラからタンセンへ


夕方の便で飛んだポカラでは、湖の写真を少々撮っただけで夕食でした。次の朝は8:00に出発ということで早めに寝ましたが、また早朝にロスさんから変更の電話が入り、9:00から9:30頃の出発に変更とのことです。


しかたがないので、朝の散歩に出ることにしました。
またも写真がご趣味の小山さんと一緒に、写真になりそうな所を探します。湖沿いのホテルでしたので、ボートで早朝の湖に出ることにしました。


遠くにマチャプチャレというヒマラヤの山が見えました。美しい山です。


ボート乗り場には、まだ人がほとんどいませんでした。カラフルなボートが綺麗です。

ポカラからは、タクシーでタンセンというパルパ県の県庁所在地?に向かいます。バスがほとんどなく、特に外国人はタクシーで行かざるを得ない状況です。ワゴン車のタクシーに千葉の団体の方々とご一緒させて頂きました。お二人の方と同乗でという話が、結局は十数人の方達と一緒に10:30の出発です。ロスさんの対応にみなさん納得がいきません。

とちゅう、山の中で昼食休憩を取りました。スプライトやコーラがあったのですが、普通はこういう店の飲み物は冷たくありません。停電も長い時間ありますし、冷える間がないという感じでしょうか。
ところが、ネパール人のガイドさんもビックリ。キンキンに冷えたスプライトがあったのです。
みんなで一本ずつ飲んで、モモというネパール餃子やチャウミンという焼きそばをそれぞれに頂きました。
チャウミン一食80円なりです。

タンセンには6時間後に着きました。食事を取ったのもあるけれど、いつもより遅かったですね。いつもなら4時間半くらいかなあ....




OKバジ20周年の旅  カトマンズの朝

支援報告ではありませんが、こちらに書かせてください



夜の10時過ぎにカトマンズの空港に到着し、ホテルに直行しました。
次の朝、時差ぼけもあってか早起きだったので、日の出を見がてら出かけて、知り合いのお寺に行きました。久しぶりにご住職に会って話をし、お土産を渡してきました。タメルにあるトリデビ・テンプルというヒンズー教の寺院で、奥さんやおじいちゃんにも会えましたが、娘達はもうで出かけた後だったので、また帰りに寄ることにしました。




もうこの時間には地元の方達がお参りに来ています。左上の写真の女性がお供物を供えているのはガネーシャさんという像の格好をした神様です。米や果物や花びらを備えていましたが、ビックリしたのは生卵に小さな穴を開けて神様にかけていたことです。
住職にあれは普通にやるのかと聞いたら、ヒンズーの本来のやり方ではないけれど、地元の人達がああしたいのだということでした。

教義一本ではなく、供物を捧げる人々の気持を汲む住職はなかなか素敵です。

ヒンドゥーの人たちは街の至る所で朝、祈りをささげています。




本来は8:15カトマンズ発の飛行機でポカラに向かう予定でしたが、ロスさんの都合で午後の遅い便になりました。予定外の浮いた時間を三重OKSSの小山さんとチベット仏教の聖地、ボダナートへ行くことにしました。

青い空に旗がなびき、人々の祈りが空に向かって流れていくようでした。

屋上の見晴らしの良いカフェでネパールに住んでいるチベット仏教のお坊さん達と一緒の場所で食事を取りました。お坊さん達、スマートフォン持ってましたね。ネパールのお坊さんもハイテクです。(笑)




ストゥーパの下で祈る若い僧侶の真摯な姿勢に感動を覚え、ストゥーパを一周して降りてくると、大きな四角い特設テントで何かが行われています。

聞くと、世界平和のための祈りの集いだといいます。ダライラマ法王の写真を掲げて、寄付を集めているようだったので、寄付をしてきました。日本円で千円くらいの金額でしたが、受付の若者たちがメチャクチャ喜んでくれました。静岡にお見えになった法王様をお迎えした時、私が最初に握手をしていただいた僧侶でしたから、ご縁があると勝手に思わせていただいています。

中では多くの老人たちによって、祈りがささげられていました。