2015年6月2日火曜日

ネパール震災 パルパ県サハルコット郡スケコット村の現状 2015 5月

55軒の家のうち、42軒が壊れてしまったスケコット村の5月の現状です。
一番左がOKバジさんです。

ネパールの田舎ではほとんどの家が日干しレンガでできています。

私達は学校を作るときには、基本を鉄筋コンクリートで平らな屋根の校舎を造ります。
生徒が増えて、後から二階部分を増築するのにお金が掛からないようにするためです。
当然地震には強いのですが、数校の鉄筋校舎にはヒビが入ってしまったということでした。
幸い私達が建てた5校の校舎にはひとつもヒビの入ったものはありませんでした。

しかし、農民達に鉄筋コンクリートで家を造るほどの金銭的な余裕はなく、ほぼ例外なく日干しレンガ造りになります。レンガを積んであるだけですから当然地震には弱く、写真のように壁は土に戻ってしまいます。




下の写真は部分的に壊れた家です。
が、ここだけ修復して住めるようになるかどうかは分かりませんね。




下の写真は、村人が現在暮らしているテントのようです。
まだ本格的な雨期には入っていませんから大丈夫ですが、雨期になったらちゃんと住めるのか心配です。

村人達に笑顔は見られなかったと、バジさんが手紙の中で書かれています。



平屋の家に住んでいた人達の方が家がきちんと残っているようです。
2階、3階建ての建物は、平屋よりどうしても余分な力が掛かったようです。
この写真の家のように角が壊れてしまっている家は直しようがないかもしれません.....



この家ではトイレだけが壊れずに残っています。



OKバジさんが、当座の資金を村全体においてきてくれました。雨期を乗り越えるための仮の修復資金です。




最後にバジさんからのお手紙を載せさせて頂きますね。












2015年4月15日水曜日

校舎引き渡し    2015 ポカラ~カトマンズ


グドゥワコーラでバジさんと別れ、ビビと私はポカラへ。

バジさんは次のボランティア団体の方達を案内するため、タンセンに戻りました。村の人がモーターサイクルで送ってくれるので、私達がジープでお送りするより、その方が早く着くのです。

ポカラに到着すると夕方でした。

到着が予定より一日早くなり、宿を頼んでありませんでしたから、ビビの知り合いのホテルへ。でも、このホテルがなんとも居心地の良いホテルなんです。しかも、私は屋上階の最も良い部屋へ入れて貰えたので快適です。シャワーもいつでも温かいお湯が出ました。


朝起きてみると私の部屋の奥は、ルーフトップレストランになっていました。3階建てのホテルです。
部屋の窓からは遠くにヒマラヤの山々が見えます。
なおかつ、このホテルはフェワ湖畔のメインストリートのほぼ中心地から、少し入った静かなところに建っているので、とても便利です。


ポカラに到着した日が、たまたまビビの友達の息子さんの誕生日だったので、私も一緒にパーティーに誘って貰いました。パルパでは考えられないほど身なりも良く、清潔な3階建ての家に住む家族でした。

長女が弟のためにケーキのろうそくを灯しています。花火みたいなものもケーキに刺さっていて、子ども達の目はみんなケーキに釘付け。近くのお友達も呼んでいて、立派なパーティーです。



右下の女の子。
なぜか私の所に来て寝っ転がっています。食べるものを持ってきては、定位置みたいに。
いろいろ話しかけてくれましたよ、ネパール語で。私には何にも通じていないんだけど、彼女には問題なかったみたいです。(笑)




実は私、これだけネパールへ行っていても、観光ってほとんどしたことがないんです。

ヒマラヤへの登山口であるポカラにも何回も泊まっていますが、有名な観光地を知りません。
ガイドのビビが、「とにかく1回観光しようよ。俺はガイドなんだし、なんにも仕事をしないんじゃもったいないだろ?」

まあ、彼にしてみても仕事をしなくてお金を貰っているのは心苦しいのかもしれないということで、思い切って観光に出かけてみました。

ポカラには有名な鍾乳洞もあったのですね。
いろんな所に連れて行ってもらいました。
「水は俺が買ってくるよ。先生が買うと高いから。」と、買い物は現地人価格のビビにお任せです。先生というのは、ガイドの常用単語で、こう呼んで貰うと嬉しい日本人が多いんでしょうね。



私のリクエストは、「水の神様のいそうな所へ行きたい。」でした。
フェワ湖では、よく早朝ボートを漕いでいましたからフェワ湖の神様のいるところは知っています。
ということで、ビビがベグナス湖に連れて行ってくれることになりました。

湖に着いてボートを漕ぎ出してもらうと、どうにも気になる島のようなところが見えます。
「あそこに神様はいる?」とボート漕ぎの親父さんに聞くと、「いるけど、往復するのに1時間分じゃ足りないよ。」と言います。2時間分払うからということで行ってもらいました。

すると確かにそこにとても良い波動を発する場所が。


親父さん、最初は言わなかったけど、Ponri でした。
この場所を守ってきたのだけれど、建物がなくていろんなところに寄付を頼んできたようです。
その甲斐あって、ある企業が1000万円級の寄付をしてくれて、今、湖から入る参道を整備していることろなんだそうです。

建物も立つ予定だそうで、ビビが言うには、お寺ができるといろんな人たちが来てくれるから、親父さんの生活も安定するはずだということです。


私が僧侶だと言うことを話すと、親父さん急に打ち解けた感じになって、ニコニコし始めました。


ベグナス湖を出たところでビビがナマズを買うことにしました。どれにするか決めるとさばいてくれます。ナタ一本で器用なものです。現地人のビビが買ってもカトマンズの高級料理店で食べたくらいの値段がしました。ビビが払ってから私が出してあげました。
今夜はナマズで一杯やろうということになりました。


ホテルの庭での宴会です。
左から、ホテルのオーナー、ビビの会社の社員、私、ビビ、ビビのお客さんのエジプト人のハッサン。

ベグナス湖の大ナマズとビール、ホテルのオーナー用のロキシーが私のおごりで、料理がオーナー。なかなか料理の腕のあるオーナーです。
ハッサンはビスケット持参でタダのみのはずだったんだけど、途中で幸せとか貧しさとか宗教とかの話をしているうちに、盛り上がってきて、1000RS出して、「これでもっと買ってきて!」って。

一泊1500RSの部屋に泊まってるのに、散財させたね。(^_^)

最初は普通にZENPOって呼んでたんだけど、途中からZENPO様になりました。
彼の目が輝くのが本当に素敵でした。



ポカラからカトマンズへ戻る飛行機に乗ろうと、2時頃に空港へ行ったのですが、飛びません。
この時期は霧で飛び立てないことが多いのです。カトマンズから飛行機が来ないのでは、乗りようがありません。随分前の便の人達も待っています。

ただひたすら待つしかないのですが、ビビが機転を利かせて、空いている前の便への変更をしてくれました。間一髪、私達の次の便からカトマンズ行きは欠航となってしまいました。もともともの便だったらアウトでした。


空港の建物から外を眺めていると行列が通ります。
ビビに聞くと、葬列だと言います。

オレンジ色の布に包まれているのが亡くなった方、その後ろで白い服を着て白い布を頭に巻いているのが息子さんだそうです。


乾期にも関わらず、カトマンズもまた雨です。雨、雷、稲光の三点セットがついてきました。
龍神様のご歓迎ですね。(笑)

トリブバン空港から飛び立つ日の夕食に、思い切って高級料理店に入りました。
欧米の料理がきちんとした味付けで食べられました。
安い店なら90RSでも食事は取れますし、日本料理の桃太郎のうどんでも300RSくらいです。

が、この日はなんと2500RSも使いました。今までこんな店には入ったことがありませんが、今回は体力的にもぎりぎりに近いところでよくやったので、自分にご褒美です。

レストランのサービスで、トラでもゾウでも猿でも食事に招待できました。
私は1人でしたから、ウエイトレスさんにお願いしてトラ君を招待しました。
周りのテーブルの欧米人のカップルや団体の人達が、「そりゃいい。これで楽しいディナーになるね。」と、ニコニコしながら話しかけてくれました。











2015年4月14日火曜日

校舎引き渡し    2015 タンセン~グドゥワコーラ


 私達 D.ZEN Japanには、M基金とK基金という2つの基金があります。
これは、The Pipe をご覧くださったMさんとKさんが出資してくださった基金で、女子の高等教育を支援するものです。

大学への進学を志していても、女の子の授業料を出してくれる親はそう多くはいません。ネパールは男尊女卑の激しい国で、実は女性の平均寿命が男性の平均寿命を超すのも世界で最も遅かったくらいなのです。それに、授業料は下手をすると農民1人の年収に近かったりします。

こんな国だからこそ、これから女性がもっともっと社会の前面に出て行かなければという、バジさんと私達の気持ちをご理解頂いてのご寄付でした。バジさんにとっても初めての女子高等教育基金で、運営の方法に検討課題があって始めるまでに時間がかかりましたが、今年からきちんと動き出しました。

その奨学生4人にタンセンに来て貰うことになっていましたが、3人は来られず、ビンドゥ・アチャーヤさんだけになってしまいました。ネパールで連絡をきちんとするのはなかなか難しいところがあるので、仕方ないですかね。残念ですが....
まあ、彼女らが卒業するまでには4年はありますから、そのうちに会えるでしょう。


ビンドゥ・アチャーヤさんは大学一年生。

実家はランプールといってタンセンからジープで4時間半くらいの場所です。学校に通うために、お友達と一緒にタンセンにアパートを借りて暮らしているそうです。 お金がかかるので、ご両親や知り合いがタンセンに来るときには、食べ物なんかを持ってきてくれるそうです。

写真を撮るとき、やっぱりにらもうとするから、「笑わないと、くすぐるよ。」と言ったらやっと笑顔が出ました。私の家族写真を見て、ビビの説明を聞いて、自分のお父さんと同じような仕事だと分かったら少し親近感がわいたようで、表情が柔らかくなりました。

彼女のお父さんは Ponri といって、お坊さん。お寺は持っていないけれど、葬儀を司る仕事をしているのです。



右上の写真はタンセンの学校です。

県都であるタンセンには裕福な家庭も多く、ボーディング・スクールといって、英語で授業を行う私学に通わせる家庭が多くなっています。当然、公立の学校に来る生徒が少なくなり、公立学校が危機を迎えました。
公立といっても、政府や県から運営に関する補助金が出るわけでもなく、生徒の支払う授業料が学校を運営するための資金だからです。生徒が集まらなければ、学校は廃校になってしまうのです。

そこで、この学校ではITの専門学校までも持つ公立学校として再生しようと決めました。
パルパの田舎からITを担う人材を輩出しようというのです。
実現すれば、他に類を見ない、地方都市の学校の1つの見本になるでしょう。
1つの大きな夢です。

しかし、ITの授業をきちんと教えてくれる先生を呼ぶには高額の給料が必要で、生徒の数が集まるまでは、とても支払えそうもありません。きちんと生徒の数が増えれば、まかなえるという試算はできるのですが....

ということで、D.ZEN Japan は運営が軌道に乗るまでの先生のお給料2年分とコンピューター教室の備品を支援することに決めました。決めたけれども、お金はまだありません。
先生のお給料やコンピューターや机や椅子、本棚などで、100万円以上はかかるはずなのです。

そこで、この「夢」にお金を出してくださる方、大募集です!!!



 

上は、D.ZEN Japan が初めて建てた校舎です。プレートを見ると、2009年だったようですね。
グドゥワコーラ村のナワドゥルガ小学校です。

下はナワドゥルガ小学校のビフォー・アフターです。

左が元の状態。吹きっさらしで、横殴りの雨はとても防げそうもない教室で勉強していたので支援しました。

右が今の状態。竹と藁の校舎は取り払われて、広い運動場ができました。山間部ですから、平らな土地はなかなか確保できないのです。新校舎の上も子ども達の遊び場や集会場になっています。


本当は私とビビだけが行って、その後の様子を見てお土産を置いてくる予定でしたが、校長先生や運営委員長さんから、是非バジさんにも来て貰いたいと連絡があったようで、バジさんも同行してくれました。

行ってみると、他の学校の引き渡し式ほどに立派な式をやってくれました。


こちらもお土産を持って行きましたが、この学校には D.ZEN Japan でジョラ基金というものを設置してあり、当日、生徒全員への学用品の配布が行われました。バジさんとD.ZEN Japanが来るなら、その時に生徒達に配布をしてあげたいとの、校長先生のお気持ちだったようです。

ジョラ基金は、特に貧しい家庭への支援が主な目的ですが、何人の生徒、どの生徒に給付するかどれだけの額を支給するかは、校長先生にお任せしています。ここの校長先生は、生徒全員にノートを配布する額だけは奨学生に渡すお金からはずしているそうです。


今回は、私がチョコを渡す係になりました。
この学校の大きな子ども達は、引き渡し式の時に食べていますから、2回目です。

この村のグドゥワコーラという名前は、「聖者の川」という意味で、聖者がここで悟りを開いたことにちなんでつけられたのだそうです。ネパールで3本だけしかない、北へ向かって流れる川の源流がこの村にあるのです。

今回は、私の寺の龍神様のデザイン「観音龍神」の色紙を学校に飾って貰うことにしました。龍神様は水の神様で、お釈迦様がお生まれになったときに、真っ先に駆けつけて、甘露の雨を降らせた方です。4月8日にお釈迦様に甘茶をかけるのは、この出来事の再現なんですね。
その龍神様の姿が私の寺のご本尊の観音様のサンスクリット文字の形で表現されています。


「夢の話を憶えていますか?」
と言ったら、おばあちゃん達が一斉に、子ども達よりも大きくウンウンと。
と言っても、ネパールのウンウンは首を縦でなく横に振るので、一瞬「え~、どうだっけ?」と言われたように思いますが。(笑)

私の娘が「私は物はなんにもあげられないけど、みなさんに愛をあげま~す!」って言ったのも、みんな憶えていてくれました。その時、後からおばあちゃん達が何人も「私の愛もあんたにあげるよ!」って娘の所に来てくれたのが懐かしいです。


その時の引き渡し式で、私は自作特注のお守り「夢守り」を生徒全員に分けました。

あれはもうダメになってしまっただろうから、教室に飾れるように夢のパネルを持ってきたよと言ったら、校長先生が「ダメになんかなっていません。どの子もみんな、とっても大事に取っておいてあります。」って。校長先生が力を込めて言ってくれたので、なんかちょっとウルッときましたね。


この方が校長先生です。

自分の家の土地をおばあちゃまに寄附して貰って校舎の土地を確保し、夫に50,000RSも寄附して貰い、私達の支援金と村の人達の寄付を合わせてようやく校舎を建てた、校長先生です。
貧しいけれど大切な自分の村と教育への熱い想いを感じさせてくれる方です。

しかし、ネパールでもこの村でも時代の流れは速く、生活が苦しくて夫が海外への出稼ぎに出る家庭が増えたそうです。するとその妻と子供達は仕送りを頼りに町へ出て暮らすようになり、村から子ども達が減っていってしまったと言うのです。

それを語る彼女の顔に、切ない祈りを見た気がしました。
「来年は14人も新入生があるんですよ。」と言った時の彼女の笑顔も私の心に刻まれました。


この学校では、子ども達が歌うOKバジ、D.ZEN Japanに感謝する歌に合わせて、子ども達が踊るという、初めて出会うパフォーマンスを見せて貰いました。校長先生のお人柄ですね。それを私達に見せてくれようとする気持ちが....

しかも、踊りを披露してくれた小さな女の子と男の子は、時々笑顔さえ見せながら踊ってくれたんです。
ネパールの人達の踊りで、こんな素敵な笑顔を見たのはこの時が初めてでした。











 








校舎引き渡し    2015 4校目


この日の出発はいつもより随分余裕がありました。
学校は10時からですから、1時間ほどで到着するラカチュリへは8時半過ぎの出発で良かったのです。

ラカチュリへ向かう途中、ジャミラという峠の村で、村の人達が村の神々に捧げる山羊の肉を用意していました。器用に鎌だけで肉をさばいていきます。愛媛の池田さん達(CCWA愛媛の会)が幼児教室を建てた村でした。


チャナンタールを朝ゆっくり出発して1時間ほどでラカチュリという峠の村の学校に着きました。

学校に着いて車を降りるとこの村がとても波動の高いエネルギーに満ちた村だということが分かりました。校舎を見上げている写真でそれが伝わると良いのですが....

太陽光での発電を随分大きな規模で行っている学校でした。
私達はここに幼児教室を支援したのです。



準備が整うまでバジさんとおしゃべり。ビビが写真を撮ってくれています。
私の「夢を持ちなさい」の話の後、バジさんのお話です。いつも通り、子ども達も大人達もにこにこ笑いながら、楽しくいい話を聞きます。やはり、何と言ってもバジさんのお人柄がその場を和やかで楽しいものにするのです。


校舎のテープカットです。
小さな幼児教室ですが、壁に日本とネパールの国旗やヒマラヤの山々の絵が描かれていてなかななおしゃれに作ってくれています。
ただ、カットするためのハサミには苦労させられました。
刃が開いていて切れないんですもの。思い出のハサミも記念撮影しておきました。(笑)


小さな子達もよく集まってきていてくれて、なかなか盛大な引き渡し式でした。
帰りには何やら雲の合間から光が漏れて神々しいようなエネルギーが降りてきました。きっとこの村は力のある神々に守られているのでしょう。喜んでもらえたようで、とても嬉しくなりました。


下の写真は帰り道です。雨が降りそうだったので、もと来た道を帰るのに不安がありました。雨で泥道になると車が動かなくなってしまう可能性が高いからです。村の人達は随分遠回りになると言っていましたが、安全策を採りました。
パルパにはない平地を走ることになりました。ブトワルという大きな町に向かう途中です。